上木康江先生

 高校生になって進路を決める時、周りの勧めもあって私は関西の音楽大学を受験することになりました。子供の頃から箏・三味線を習ってはいたものの、ぬるいお稽古しかしたことのなかった私は漠然と「そこに行けば自分の将来が見つかるのかも…」と考えていました。
 ある日東京に留学の試験を受けに行った弟が友人の知り合いで泊めていただいた家のお嬢さんから東京芸術大学の入試要項をもらって帰ってきました。芸大に邦楽科があることは知っていましたが、自分には関係のないことと思っていました。音楽大学受験はどの先生に実技を習うかが非常に重要で、子供の頃から目指す大学の先生に師事し、受験準備をします。洋楽もそうですが、特に邦楽の世界には系列があっておいそれと自分で先生を選ぶことはできません。一般の大学のように「成績上がったから神戸大学やめて京大受験するわ」というわけにはいかないのです。そんなこともあって私には芸大受験という選択肢はありませんでした。ところがなぜか母がその入試要項に喰いついてしまったのです。“音楽をやるのなら最高のレベルと環境で”と考えた母は父をつついて父の友人の紹介を取り付け、当時芸大の助教授でいらした上木先生にお試しレッスンをしていただけることになったのです。芸大に興味はありませんでしたが、母の強い勧めもあって、自分の力を客観的に知りたいと思った私はその話にのりました。先生の方から提示された“とりあえず一度みるだけ”という条件で上木先生のお宅に母と二人で伺ったのは私が高校三年生の7月のことでした。
 今から考えるとずいぶん無謀で世間知らずなことをしたものだと思います(姫路で子供の頃からお世話になっていた先生にも申し訳ないことをしました)。ただこの一日は私の人生を変える日になりました。
 先生のお宅は文京区の東大前、閑静な住宅街にありました(今でもありますが)。玄関で出迎えて下さった先生の印象は失礼ながら恐そうで神経質そうな感じでした。最初に何をお話ししたかは憶えていませんがレッスンが始まるとその歯に衣着せぬ言葉や凛とした姿勢に圧倒されました。細かくいろいろなことを仰るのですが、半分くらいは意味がわかりません。しかしそのうち、どうやら自分はどうしようもないほど下手なのだということはわかりました。サンドバックになってボクサーに打たれ続けているような感覚でしたが、不思議と辛いとも嫌だとは思いませんでした。レッスンが終わり、先生が「あなたは芸大受験生のレベルではない。今から準備をしても到底間に合わない。浪人しても将来上手くなるという保証もない。女の子だし、あきらめた方がいい」というようなことを仰って、母がその話にごもっともと相槌を打っている時に、既に私の心は決まっていました。“この先生に習いたい”。それは突然降りてきた啓示のようなもので、そこにはもう大学のことも進路のことも何もありませんでした。その後、先生と母に諦めるようにずいぶん説得されましたが、まったく耳に入りませんでした。“絶対習う”と心に決め、それを繰り返すだけの私に母が根負けして、先生に頭を下げてくれました。“とりあえず一度みるだけ”という約束のこのレッスンは私のこの決意によってその後も続くことになったのです。
 さて受験生として上木先生のレッスンに通い始めた私は一向に上達の気配が見えず、先生を呆れさせたものでした。「そういう弾き方が田舎臭いっていうのよね」「あんたなんかほんとは教えたくないのよ」などの情け容赦のない責め言葉を投げつけられながら、それでもめげずにレッスンに通えたのは私の心のどこかに鈍感な部分があったからかもしれません。それは先生にだけ開いていた私の心の扉でした。子供の頃から世の中を斜めに見ているようなところのあった私は中高時代の反抗期、学校の先生の言うことなど聞いたためしがありませんでした。でも上木先生だけは別格でした。先生はその圧倒的な存在感で私を牛耳っておられたのです。なぜ…と考えても今でもよくわかりません。それだけ強い縁があったのだとしか思えません。

 どうにか芸大に入学できた後も先生の厳しさは変わりませんでした。先生が常々仰っていたのは「留年するくらいなら学校やめなさい」でした。今では独立行政法人ですが、芸大はその開校当初(音楽取調掛の頃)かられっきとした官費の学校です。「一人一人に血税が使われているのだから必死で勉強なさい」というわけです。
 それでも遊びたい盛りの年代だった私たちは先生の目を盗んではレッスン以外の授業をさぼることに血道をあげていました。その頃、故中井猛先生が講師でいらしていて「専攻外邦楽」という授業をもっておられました。地歌に関する総括的な授業で私たちの殆ど知らない端唄物や能取物などの曲を教えて下さっていました。後になってその貴重さを思い知ることになるのですが、あろうことかその授業を私たちの学年6人は順番にさぼるローテーションを組んでいたのです(首謀者は私でしたが)。ある時たまたまその授業に全員が出なかった週がありました。そしていつもはいらっしゃらない上木先生がたまたま授業を見にいらしたのです。…それから後のことは今でも同級生全員のトラウマになっているくらい恐ろしい経験でした。翌日全員がレッスン室に呼び出され、正座で一時間以上先生の叱責を受けました。「学校やめなさい」と言い渡されましたが、全員でお詫びして今後は授業をさぼらないことを先生に誓い、どうにか首がつながりました。後に中井猛先生にこの時のことをお話したら「おまえたちの学年は本当にやんちゃだったから」と笑っておられました。
 レッスンでも先生はとても厳しかったです。ご自分の思うように弾けない私に「もうあんたはみない。レッスンに来なくていい」と仰ったこともありました。この世の終わりくらい悩みましたが、そこでめげたら本当に学校をやめるしかありません。意を決して、次のレッスンに何食わぬ顔で伺うと、先生はいつもと変わらず教えて下さいました。

 卒業後はほんの少しですが、大人として扱っていただけるようになりました。お稽古の度に音楽のこと、読んだ本のこと、いろいろなことをお話しできるようになりました。ご自宅のお稽古場の代稽古にと言われた時は天地がひっくり返るほどびっくりしましたが、土曜日には先生のご自宅に伺い、2階で先生、1階で私がお弟子さんたちのお稽古をするようになりました。朝から夕方まで一日先生の家で過ごし、お昼と夕飯をいただいて帰るーそんな日々が四年ほど続きました。その頃私は好き嫌いも多く、生活も不規則だったので、血糖値が下がるとすぐに倒れるような虚弱体質でした。先生はそんな私を心配して下さって、土曜日には栄養のバランスの良い食事を用意して下さいました。甘いものをまったく食べなかった私に毎週”ノルマ”として和菓子のおまけも付けて下さいました(仕方なくいただいているうちに、だんだんその美味しさもわかるようになりました)。今でもですが魚の皮が苦手で、出された魚に箸をつけることができず、もじもじしていると、先生は私のお皿の魚の皮まで取って下さっていました。先生とのそんな時間が短いことをあの時知っていたら…と思いますが、もうあの日々は戻ってきません。後の祭りは人生の常ですが、それでも懐かしく、慕わしく思い出さずにいられません。

©2015 Kazuyo Kinugasa